上常呂の地域住民を見守り続ける地蔵

2025-12-22 掲載

(北見市/社会)

金刀比羅神社から大真寺へ
背負って運ぶ

地域再発見!

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 北見市上常呂の大真寺敷地内に33体の観世音地蔵が並んでいる。かつて、同じく上常呂地区にある上常呂金刀比羅神社にあった地蔵だが、今ではその過去を知る人も少ないという。

 1915(大正4)年、地域住民により香川県の金刀比羅神社からの分霊で祀られた上常呂金刀比羅神社。大真寺の資料によると地蔵は「香川県出身者を中心に、上常呂地域及び訓子府他に働きかけ、寄付により三三番寺観世音地蔵を完成」とある。明治時代には神仏分離令により神社と寺院は区別されたが、おそらくそれまでの神仏習合だった歴史により、三三番寺の観世音地蔵を地域で崇拝しようと、神社に建立したとみられる。当時は、金刀比羅山の北側にあった道沿いに並んでいたそう。

 昭和に入り戦争が激しくなると、地域には高齢者や女性、子どもだけが残され、金刀比羅山や地蔵の管理が難しくなり、地蔵の周辺は荒れ放題になっていった。そこで、当時の大願寺(大真寺の前身)住職らが協議し、同寺で永代供養することになったと同資料には記されている。

 地蔵が移された時期は記録されていないが、1930(昭和5)年生まれの地域住民が子どものころ、地蔵を背負って運んだという話が伝わっているため、地蔵が寺に移されたのはおそらく戦争中のこととみられる。

 同寺の総代長を務める角田優さんは「当時は地蔵はボロボロになっていたようです」と話す。壊れた地蔵は寺で修復。その後も修復を重ね、昨年には、隣りに並ぶ日露戦争戦死者の碑や馬頭観世音とともに台座も新しく作り直した。

 地蔵には風化によって薄くなりながらも、奉納したとみられる人名や「明治39年」などの日付「大和国」「近江」「丹波」といった出身地らしい旧国名が刻まれており、当時の人々の思いを慮(おもんばか)ることができる。角田さんは「これからも守っていかなければ」と、地域住民を長年見守り続けている地蔵を見つめた。 (菊)

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