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連載 企業家・渋沢栄一 (3)

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2019/10/05掲載(北見市/本誌連載)

北海商科大名誉教授・菊地均氏寄稿

「掃葉軒」塾で儒教を本格的に学ぶ

 文久元(1861)年に江戸に出て海保漁村の「掃葉軒」塾の門下生となり、儒教を本格的に学び、北辰一刀流の千葉栄次郎(周作の次男)の道場で剣術の修行をしていた。このような少年時代以来の儒教的態度を底流にした武士道的な教養は、彼の心の中に社会の正しいあり方を考えさせ、人間の尊厳を自覚する心構えを養ったものと思われる。

 有名なエピソードがある。渋沢が代官の呼び出しを受けて、父の代理として岡部藩の陣屋に出頭し、御用金5百両を差し出せという要求を受けた時のことである。彼は即座に「父に話した上で改めてお請けにまかり出ます」と応じたところ、代官は「17歳になっているなら5百両位の金は貴様一存でも承知できるはずではないか」と半ば権柄(けんぺい)づくで、半ば嘲弄(ちょうろう)する態度で押し付けようとした。渋沢はあくまで返事を保留したままその場を引き揚げたのだが、この体験は彼にとって大変ショックだったようだ。

 後日、渋沢は「同じ人間でありながら、こっちに正しい理由があるにもかかわらず、武士であるからといって百姓を奴隷扱いにすることは不都合千万である。こんなことが起こるのは幕府の政治がよろしくないからだ」と考え、この時から百姓を辞めて武士になり、世の中を良くするために活動したいと思うようになったという。

 ちょうどその頃は尊皇攘夷論や討幕論が盛んになってきたところである。青年渋沢もこの思想に熱中し、現代風に言えば、革命家的情熱が彼に燃え上がった時期だった。しかし、父は子の思想に深い理解を示しながらも、厳重に手綱を引き締めていたから、彼も自重して数年の間は家業に励み、大いに商才を磨いていたのだ。

 だが幕末の情勢は、安政の大獄から大老井伊直弼の暗殺、さらには老中安藤信正に対する尊皇攘夷派の水戸浪士の襲撃など、次第に切迫し、渋沢の討幕思想も江戸遊学、勤皇志士との交わりなどを通じてますます尖鋭化してくる。これが極点に達したのが文久3(1863)年であった。