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連載 企業家・渋沢栄一 (4)

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2019/10/18掲載(北見市/本誌連載)

北海商科大名誉教授・菊地均氏寄稿

討幕計画を立てるも中止に

 文久3(1863)年7月は薩英戦争があったり、8月に京都における長州勢力一掃のクーデターが起こったりする中で、23歳の渋沢は、この8月、少年時代からの漢学の師で従兄に当たる尾高惇忠を首領に仰ぎ、同志69名を糾合し、討幕の実行計画を決めたのである。

 その計画というのが今から考えるとすこぶる乱暴なもので、まず69名の決死隊で高崎城を攻め落とし、さらに同志を募った上で横浜の外国人を切り殺し、長州と連携し幕府を倒すというものだった。すると外国では軍隊を出動させ幕府を攻めるが、幕府は支えきれずして倒れる。そうなれば王道をもって天下を治める時代が出現するだろうというものである。

 渋沢は大まじめでこれを実行可能と信じ、商売で得た金の中から父に隠して2百両の金をひねり出し、これを軍資金として武器を購入し、この年の冬至の日に実行することになっていた。

 だが、その直前になって、かねてから一同が指導者として仰ぎ、この件の参謀長を務める予定になっていた尾高長七郎―惇忠の弟で渋沢より2歳年長、文武両道に優れ江戸・京都の間を往来し天下の情勢に通じていた人物―が急きょ京都から帰ってきて、京都の情勢を伝えた上で、この計画が無謀で成功の見込みがないこと、万一成功したとしても日本国に対する外国の干渉を招く恐れがあることを力説し、中止すべきだと主張した。

 その時、渋沢は興奮して、長七郎を刺殺してでも計画を実行しようと考えたけれども、結局長七郎の説が正しいことを悟り、この討幕計画は中止するに至る。